陳廷敬は(1638~1712)、字(あざな)を子瑞、説岩と号し、老後、午亭を号に用い、山

西省陽城県北留鎮皇城村の生まれである。幼小の頃から、人並みに聡明で、才気に溢れていた。20歳に進士に合格し、「庶吉士」に選ばれ、「真材を儲養し、以って任用に備う」(真の逸材を貯え養い、任用に備える)ための「庶常館」で満州族と漢民族の課程を学んでいた。やがて康熙帝に認められた。一生の中で、28回も昇進し、「日講起居注官」、「経筵官」を歴任し、「南書房」に抜擢され、「翰林院掌院学士」に任ぜられた。前後して、吏部、戸部、刑部、工部の尚書など重要な官職を務めた。康熙42年、「文淵閣大学士」兼ねて吏部の尚書に任命され、当時地位の高い名相となった。
陳廷敬氏は一生をかけて康熙帝を補佐し、朝廷で53年間勤めた。朝政を管理し、ずば抜けている業績を遂げ、康乾盛世(康熙帝と乾隆帝時代の繁栄)に堅固な基礎を定めた。文才が抜群なので、『明史』、『鑑古輯覧』、『佩文韻府』、『平定三逆方略』、『康熙辞典』、『大清一統志』など大型の重要な典籍の総閲官を務めた。氏の著述には『午亭文編』などがある。かつて康熙帝が「房姚に雅韻を比し 李杜に詩豪を並ぶ」(房、姚とその品格を比せられ、李、杜と詩豪として並べられる)の詩句をもって、陳氏の政治才能と文学才気を高く賞賛した。氏は清の著名な政治家、文学者、理学者、詩人だと公認されている。
1712年、陳廷敬は突然重病にかかり、床についたきり起きられなかった。やがてこの世を去ってしまった。享年74歳であった。彼を偲ぶために、康熙帝は自ら挽詩を作り、祭文を書いたうえ、棺と金を賜り、皇子を弔いに行かせた。さらに、空前の葬式を行い、「文貞」という謚号を賜った。